馬場水車場の「おせんこう」入荷デス


八女の「朝日屋」さんから持ってきていただきました。
http://blog.livedoor.jp/asahiyayame/


店頭では500円で販売中「馬場水車場のお香」 英語だと、Cedar Incenseなんすな。


ひとつひとつ、手で詰めてあります。超家内制手工業。


写真は、いずれも朝日屋さんのサイトからお借りしました。無断借用すんません。


線香にもあれこれあって、大きく分けると香り線香と杉線香の二種類。
ベースは一緒なのですが、結着剤である「タブ粉」に香木の粉末を練りこんで固めたものが「香り線香」、杉の葉を主に使ったものが「杉線香」。仏壇に上げるのは「杉線香」です。住環境の変化に伴い、香り、煙の少ないものが主流になりました。ケムリ、少ない。ニオイ、少ない。たばこみたーい。
ま、今では仏壇のあるお宅もすくなくなりましたが。マンションには床の間もねえもんなあ。そのくせ「和の空間」だってさ。200年住宅、とか言って屋根の建材が30年しか持ちません、みたいなもんすな。閑話休題


お線香の日本への伝来は江戸時代。堺の商人が中国、韓国から製法を持ち帰り、そこから淡路島、京都に伝わったようです。日光杉で有名な日光も生産地のひとつであるようですね。てっきり禅宗の到来と同時期に、お茶と共に日本に伝わったもんだとばかり思っていたのですが、意外と遅いんですなー。


この八女の水車製粉、はじまりは1918(大正7年)だそうです。豊かな水資源と森林資源、そして熟練の水車大工の技術をバックに「線香粉製造」という集落あげてのビジネスに乗り出しました。当時のお金で2630円。現在で言うと約6000万円相当。もちろん、一軒の家でまなかえる金額でもなく、八重谷集落の人々が出し合って水車場を完成させました。今でいうと、JAの共同加工所みたいなもんでしょうか。


最盛期には八女地方に約40軒ほどあったといわれる水車製粉業者。
今ではほぼ動力を電気モーターに移しています。そりゃ、雨がすくなければ動かなくなったり、台風がきたら心配で見にいかなきゃいかん、ぎっこんばったんと五月蝿い、職人もいなけりゃ修理にも手間のかかる動力が、現代の経済社会の中では廃れ行く運命だったのは、ある意味必然だったのでしょう。


しかし、馬場さんがこの手間のかかる水車を使い続ける理由。それは「第一次オイルショック」がきっかけでした。つい昨年にもあった石油危機。原因はさまざまですが、「再生可能な地域資源の継続的利用」が可能である、という点で水車動力は八女地方にもっとも適した動力だといえます。そしてそれは豊かな森林資源、そして広がる水源、平野部での稲作などに繋がっていくのです。


そして、そこから産み出される生産物を使い続けること。それが我々消費者のできること、だと思います。


もちろん、着色料(青くないです。杉の葉っぱは枯れたら茶色ですよー)、保存料(昔の線香は白いカビがきてましたね。防カビ材も燃えて空気中に拡散します)、結着材はタブ粉(後述、正直もろいです)のみです。もちろん香料もつけていません。


さて、以下線香に関する雑談。


実は淡路市一宮地区が、線香の国内生産量の約7割を占めます。
なぜ、淡路島で線香作りが盛んになったのか?その理由は三つあります。

ひとつは海に囲まれている淡路島。漁業が盛んであったのですが、西からの季節風の吹く頃には漁に出ることができなくなるため、必然的に家内工業が発達し、線香職人を生みだす時間的要因があったといえるでしょう。
もうひとつはこの季節風中国山地四国山地の間でできる一種の風洞である「西風」を受けやすい土地でありました。現代のように温風乾燥機など無い時代。製造過程で乾燥を必要とするお線香作りにはこの西風が非常にプラスに働いたようです。
最後に瀬戸内、四国と関西、関東を結ぶ航路の中継点ともいえる地理。原料である杉の葉の粉末や、タブノキの枝葉からとれる粘液を乾燥して得られる「タブ粉」など、生産地から原料を手に入れやすく、消費地への出荷もしやすい地理もプラスに働いたのでしょう。




ちなみに、人工香料の分野でも日本は世界トップクラスだという話を聞いたことがあります。それだけ繊細な嗅覚をもっていたのでしょう。


でも、香りの記憶ってすごいですよね。お線香の香りで、実家やふるさとを思いだされるかたも多いのではないでしょうか。フランスに香水の文化があるように。お線香は日本の香りの文化の一つである、といえるでしょう。


日本人はなんでそんな繊細な嗅覚を持つようになったのかなー?魚の生食の文化があったから?温暖多湿で、食べ物が腐りやすいから?と、生活感溢れる疑問を残して本日の更新は終わり。