下郷農協60周年記念イベントに参加

ちゅわけで、下郷農協60周年記念イベントに参加してきました。


ざっと下郷の歴史をおさらい。

下郷農協は中山間地域の小さな農協で、有機農産物の産直が中心です。

一般的な農協は、慣行栽培であり、農薬、化学肥料の斡旋や農業資金の貸し出しなどが主な業務かと思いますが、下郷は組合員に不要な金を貸さず、合併に反対し、系統農協につかず、JAマークを使わないと徹底しています。

農家を大切にし、販売事業(加工事業)を中心に、積上げ方式により価格保障を行ってるのも特徴的です。かかったコストを「売り上げ」という形できちんと農家に返す。これも農協の仕事なのですね。

はじまりは60年前ってんですから、私が生まれるずっと前ですね。

「玉川生協と東都生協」というページがあります。
http://www.suzuki31.net/etc/2002/0320toto-2.html

両生協の成り立ち、変遷をつづったページですが、そこに下郷の記述が出てきますので抜書き。

小作農が戦後の農地解放によってようやく土地もちの百姓になれたとき、戦前の「産業組合」にかわって、「農業協同組合」と「消費生活協同組合」がうまれました。
 都市住民は生活のための「消費資材」がないのだから、「新しい消費生協」は生活のために各地に「雨後の竹の子」のようにうまれました。それは「消費」のためではなく、「生存」のためでした。

〜中略〜

 大分下郷農協には 奥登(おくのぼる)、茨城玉川農協には 山口一門(やまぐち)という先達がいて、新しい農民運動を興しました。戦前の「小作争議」が戦後の「農民運動」に転化したのです。

 大分下郷農協は、農地解放によっても土地を持てない次男、三男の出稼ぎ先である北九州に木炭を売って大豆を買い、醤油加工を興しました。行き場のない満州からの引き揚げ者を開拓農民として受けいれたのも戦後すぐのことです。信州佐久出身の開拓農民に酪農を奨め、鎌城という台地を開墾しました。そこで生まれたのが「労農牛乳」でした。奥登はその鎌城山林争議でGHQに逮捕され、一年間投獄されました。ずっとのちのことになりますが、下郷農協が日本で初めて開設した「農協立診療所」に赴任した医師は、かの信州佐久総合病院から派遣されたのです。

 下郷農協は「労農牛乳」の販路を北九州に求めて、深夜大分耶馬渓から北九州に木炭トラックを走らせました。北九州では下郷出身の家庭に一戸一戸個別配達をしたのです。「労農牛乳」の個別配達をするうちに、野菜の配達も始まりました。当初、野菜配達は販売目的ではなく、開拓農家の子ども達に着せる古着を目的とした物々交換でした。

 小作農と満州引き揚げ者を新しい農民として組織した下郷農協は、今度は都市労働者を食糧供給によって組織する道を探しました。北九州のいくつかの消費生協の設立発起人は下郷農協 奥登です。

 東都生協初代理事長 土屋登は産直運動とは何かという問いに対して「食糧の自給と民族の独立」と定義しました。私は土屋登の定義に加えて、産直運動を「戦後の新しい農民運動が、都市労働者を食糧供給によって組織し連帯すること」という定義を付け加えたいと思っています。

連帯、組織など、やや堅苦しい単語がでてきますが、こういった時代だったのでしょう。なんとなく雰囲気が伝わってきますね。
時代の動きもあり、昭和50年ころはずいぶんと忙しかったようです。

しかし、時代の流れでしょうか。時代は個別配送か、大型店舗か、といったところでしょう。以前のように「班」をつくって、だれかが荷物を預かって、マークシートで翌週分を注文して…というより、ふらっと思いついたときに買いにいける店舗のほうが便利なんですよね。


昨年は出資金を半額減資などの厳しい面もありますが、新しい理事長を迎え、次の時代への農協へと向かって頑張っておられます。