下粕の製造

まあ、アルコールを飛ばすとこも含めて製造、ではあるのですが。

蒸しあがりはこんなカンジ。

アルコールが飛んだ酒粕と籾殻をコンクリートの槽にあけていきます。

これに糠を混ぜ、切り返していきます。
とても、酒蔵とは思えない作業です(笑)
出来上がった下粕は農家さんのところでさらに一年ほど熟成、堆肥として畑に戻ります。


この下粕と、ガンヅメ、と呼ばれる農耕器具、除草剤としての鯨油、そして水車が揃って、筑後平野の農業の発展を支えてきたそうな。

少々長いですが、昭和51年の焼酎組合の文献を頂戴したので一部引用。

http://beefheart.sakura.ne.jp/tankentai/tanteidan/komon/komon.html

焼酎風土記
北九州
吉田 大(福溜会)

 県南の古都久留米から有明海にいたる筑後川下流のデルタ地帯は、早くから我が国有数の米作平野であったが、17世紀から18世紀にかけての近世前半の頃になると、耕地面積も米の生産高もそれまでに比べ一躍倍増した素晴らしい農業生産の発展が見られるのである。

ガンヅメ、水車、鯨油、焼酎の下粕(したかす)

 元禄の頃、前記の米作の発展に大きく寄与した功労者に、日本の農学を初めて体系づけた『農業全書』全10巻(1697年)の著者糸島の宮崎安貞や、農耕用のガンヅメ(除草機)等を発明した(1717年)三井の笠九郎兵衛、さらに見事な灌漑用水車を創り出した(1722年)三瀦の万右衛門がいる。
 またこの頃から害虫駆除に五島産の鯨油の普及が始まり(1781年)、加えて米作肥料として酒粕を煎(蒸溜)じて得た下粕が貴重な存在となって、農業生産に格段の安定と飛躍がもたらされたのである。


〜中略〜


さなぼり(早苗饗)焼酎

 こうして農民の間に生まれた福岡の酒かす焼酎は芳醇な香味、あるいは夏期も腐敗の心配がなく、貯蔵すればする程品質が良くなる等の特質が広く大衆の間に珍重されて、次第に農民生活の中に溶け込み、爾後の農村文化の大きな担い手となるにいたった。
 古老の語り伝えるところに依ると、江戸末期から明治初期にかけて小農で三駄、大農で七駄程度の酒かすを仕入れて焼酎を煎じ、下粕肥料の製造を続けて来たとの事である。

(註)一駄は馬一頭に負わせる重量で36貫を一駄とする。大農七駄で酒かす945kg、25度焼酎200l程度作っていた事になる。

 さて下粕の肥料は出来た。田植えも済んだ。さあ骨休めのお祭りだ。さなぼり(早苗饗)の祝宴だ! という事で、村里には酒かす焼酎の芳香がだたよい、いつの頃からか広く農民層に“さなぼり焼酎”の愛称で慈しまれ親しまれるようになった。

(註)この風習を尊重して、大東亜戦争中及び戦後の統制経済下でも、田植焼酎(早苗饗焼酎)の特配が続けられた。

盆焼酎・梅酒・暑気払い

 少しばかり黄ばんだ梅の実に氷砂糖を加えて酒かす焼酎に漬け込んだ梅酒は、プラム・リキュールの秀逸である。その製法の秘法は農村の古くからの旦那衆の家系に受け継がれ、今日に至っている。
 40度の酒かす焼酎に白砂糖を一ぱい垂らすと、独特の風趣が漂って暑気払いの妙薬となる。特に中年女性に愛好珍重される逸品である。
 また扇風機も冷房もない古き良き時代の夏の夕暮れ。湯上がりの涼しい縁台で団扇片手に飲む酒かす焼酎の雅趣、あるいはぴりーつとした咽ざわりで一日中のけだるさを引きしめる清涼味等等お盆の飲みものの王者とされ“盆焼酎”という有難い季節名が生まれ出たのである。
 盂蘭盆会の食卓を飾った酒かす焼酎は風雅でしかも土俗味あふれ、一族団らんのこよなき伴侶であった。


ちなみに「ガンヅメ」、江戸時代に筑後国御井郡国分村の笠九朗兵衛さんが発明、っておんなじ村内やーん。そういや町内は笠さんだらけだよね、と思って親に聞いてみたら納骨堂んとこに顕彰碑がたっとるばい、とのこと。うそーん。


で、やや余談になるのですが、その昔をもうひとつたどると、以前は各地に粕取り焼酎をつくる蔵元があったとのこと。お酒としてはかなり癖のある部類にはいるため、だんだんと廃れ、粕取り専業の蔵は廃業、兼業でもほんの数軒、という現状なのですが、その粕取蔵がある場所と、太宰府天満宮神領田の所在地とが重なっていたそうな。このへん、家に資料があるかなー。親父の本棚、ひっくりかえしてみよう。



杜の蔵さんの敷地の一角に、杜の蔵初代の森永弥久太郎さんの顕彰碑がありました。
もう一度、さきほどの焼酎組合の文献から引用します。

焼酎組合の歴史

 明治24年(1851年)、九州鉄道が門司から熊本まで開通した(ただし当時は九州鉄道株式会社経営の私鉄。国有化は明治40年7月1日)。

その秋新装なった羽犬塚駅前の石人館旅館に、瀬高(山門郡)の川島準平・水田(八女郡)の吉田磯八・城島(三瀦郡)の首藤有記等が相集い、山門・八女・三瀦の合同同業組合を作り、八女の吉田磯八を当番世話人としたのが、この組合のスタートである。


その後三池・大牟田・久留米・三井・浮羽・朝倉を併せ、二市七郡の同業組合に発展し、大正8年筑後焼酎製造組合となり、組長に森永弥久太郎、組合主事に元犬塚村長の中山隣太郎を迎え、組合活動は格段の充実を来したのである。
両氏はまた持前の宴席の才人ぶりを縦横に発揮し久留米市の料亭松源での恒例の品評会宴席は実に殷盛を極めたもので、この伝統は大東亜戦空襲で松源が消失するまで続いた。
小生もまだ若い学生の頃に父の代理でこの宴席に出席して、きらびやかな芸者衆に取り囲まれ、身の縮む思いをした記憶がある。
 昭和28年(1953年)酒団法の制定と共に、現在の福岡県酒造組合に合流し、専業者をもってその中に『福溜会』を組織し、今日に至っている。

ちなみに、初代(故人)、そして二代目の森永良雄さんは、弓道の世界では超のつく有名人。すいません。恥ずかしながら知りませんでした。共に、最高段位である「十段」をお持ちであります。森永良雄さんは、現在もご健勝であり後進の指導に当たられる毎日とのこと。


弓道の十段、ってのは、「道」の世界ですので、「入退場を含む起居進退動作から心気の充実までのすべてが審査の対象である」とのこと。スポーツの世界ではないので、的中すれば合格というわけじゃないんですね。心技体と揃ってはじめて到達できる境地なのでしょう。



粕取り焼酎の新旧対比には、このサイトが詳しいです。

http://beefheart.sakura.ne.jp/tankentai/tanteidan/20years.html


同行していただいた、八女の「朝日屋」さんによるレポート。さすが酒屋さん、といった目線です。

「杜の蔵 兜釜の粕取焼酎」
http://blog.livedoor.jp/asahiyayame/archives/1190817.html


うーん、こうなったら鯨油もしらべてみたいよねー。となると、やっぱ対馬とか唐津、長崎経由なのかなあ、とか。馬場水車製粉で、水車にもであったことだし。筑後平野の農業史、楽しそうです。